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世田谷吉良氏

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歴史

世田谷吉良氏 (せたがやきらし)

資料ID 21917

 吉良氏は、足利氏の庶流で、三河国幡豆郡吉良庄(現在の愛知県西尾市)より起こった。世田谷吉良氏はその庶流である。室町時代のはじめに奥州探題を務めた吉良氏が、室町幕府3代将軍義満の頃に、鎌倉公方・足利基氏の招きにより関東に移り住んだと伝えられる。吉良氏がいつから世田谷に所領を持ち、移り住んだかは定かではないが、永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉の鶴岡八幡宮に宛てた寄進状からこの頃に世田谷に所領を持っていたことが判明している。しかし、当時吉良氏が世田谷に居館を持っていたかは不明である。吉良氏が世田谷に館を構えていた時期は、深大寺の僧・長弁が著した『私案抄』の応永33年(1426)の条に「世田谷吉良殿」という文言があることからも、この年には吉良氏が世田谷に館を構えていたと考えられる。
 16世紀に入ると、北条氏の台頭によって関東の勢力地図は大きく塗り替えられることになった。一般に北条早雲の名で知られる伊勢盛時が、堀越公方を滅ぼして伊豆を支配下に収めると、16世紀前半には相模・武蔵にも勢力を拡大していった。この時期の吉良氏の動向を示す史料はないが、天文2年(1533)には、北条氏による鶴岡八幡宮の再興事業に、吉良氏が大量の木材を提供したという記録があることからも、この頃に北条氏の勢力下に入ったものと考えられる。
 吉良氏は世田谷領と蒔田領(現在の神奈川県横浜市)に所領を持っていたことから、「世田谷殿」あるいは「蒔田殿」、「蒔田御所」などと称せられ、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる特異な存在であった。また、吉良氏と北条氏の姻戚関係からも、北条氏が吉良氏を重視していたことかがうかがえる。吉良頼康の養子の吉良氏朝は、今川氏の一族である遠江の堀越氏の出身で、北条氏綱の娘を母とする人物であった。さらに、北条氏康の娘がこの氏朝の室となっていることからも、北条氏が吉良氏を重要視していたことが分かる。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉と敵対していた北条氏が小田原征伐によって滅亡すると、北条氏に代わって徳川家康が関東に入国した。北条氏と姻戚関係のあった世田谷城主・吉良氏朝は、本拠地であった世田谷および蒔田の地を離れることとなり、下総国(現在の千葉市)へ逃亡することになった。翌天正19年(1591)、氏朝の子・頼久は、家康に召し出され、上総国寺崎郷(現在の千葉県長生郡睦沢町)に1125石の土地を与えられてその旗本となった。一方で頼久の父・氏朝は、世田谷弦巻の実相院に隠棲した。こうして家康の旗本となった頼久であったが、名門「吉良」の家号を名乗るのは1人に限るべしとの理由で、その使用が許されず、「蒔田」に名字を改めた(『寛政重修諸家譜』)。
 それから60年余り後の明暦3年(1657)、頼久の孫・義成は、表高家(高家のうち無官位の者のこと)に列せられ、無官位のまま元禄4年(1691)に65歳で没した。翌元禄5年(1692)、義成の家督を継いだ義俊は、宝永7年(1710)には、赤穂事件(元禄14年・1701)で家名断絶となっていた「吉良」の名字に復することが許されたことから、関東吉良氏は名実ともに復活したのであった。
【関連項目】
・豪徳寺 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21755/detail/]
・勝光院 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21734/detail/]
・勝國寺 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21733/detail/]
・世田谷城跡 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21614/detail/]

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