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斎藤寛斎

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歴史

斎藤寛斎 (さいとうかんさい)

資料ID 36491

 斎藤寛斎は、江戸時代の文政4年(1821)、上総国武射郡山中村(現在の千葉県山武市)で医師の子として生まれ、初名を鈴木常次郎といった。天保12年(1841)、武州荏原郡太子堂村(現在の東京都世田谷区太子堂)に移り住み、髪結業で細々と生計を立てていた。
 文久元年(1861)、下総国(現在の千葉県)の郷士の子で、勤皇の志士として活動していた相楽総三との出会いにより、常次郎にも転機が訪れた。6年後の慶応3年(1867)、薩摩藩の西郷隆盛の命により、江戸・三田の薩摩藩邸で浪士隊が結成されると、常次郎は名を斎藤源次郎と改めて、相楽とともにこれに参加した。
 翌慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに勝利した官軍(新政府軍)は、旧幕府軍の追討をするため、鎮撫総督の先遣隊として、赤報隊が結成した。相楽率いる一番隊は、京都から東山道へと進軍を開始したが、僅か10日ほどで新政府から帰洛命令が届いた。しかし、相楽はこれを拒否して進軍を続けたため、官軍の統制を乱す「偽官軍」とされて捕らえられ、下諏訪宿(現在の長野県)において打ち首となってしまった。下諏訪宿で追放された源次郎は、住み慣れていた太子堂村に近い中馬引沢村の地に帰り着き、非業の死を遂げた相楽の遺志を継いで、学校設立の運動を起こした。
引沢村に居住した源次郎は、名を寛斎と改め、学校設立の話を地域の人々に説き、地域の有力者らと協力して、「郷学所(地域の学校)」の設立を進めた。その結果、明治4年(1871)1 月、代田村円乗院にて郷学所の開校式が行われ、同年4月、太子堂村の円泉寺の土地を借地し、新校舎を落成させた。また、同月23日には、太子堂郷学所として名称も新たに学校をスタートさせた。さらに、明治6年(1873)2月になると、太子堂郷学所は幼童学所と改称され、翌 7年(1874) 1月には公立の荏原学校として開校式が行われた。この荏原小学校の開校以降、世田谷区内の各地に順次小学校が整備されていくこととなった。
【関連項目】
・相楽霊神 斎藤拝口(欅の守札) [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/4056/detail/]
・円乗院 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21756/detail/]

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