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世田谷の歴史

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原始・古代の世田谷

掲載日:2019年7月1日

1.世田谷のあけぼの

世田谷区の位置と遺跡分布

 世田谷区は、関東平野の南西部に広がる武蔵野台地の東南部に位置し、台地と多摩川沿いの沖積低地にまたがる。その規模は、東西約9キロメートル、南北約10キロメートル、面積は約58平方キロメートル。世田谷区内には、約3万年前の石器製作跡から近世の大名陣屋に至るまでの、祖先の生活のあとを伝える300箇所あまりの遺跡が確認されており、ほぼ全時代を網羅しているばかりか、東京区部では最多の遺跡密集地となっている。

旧石器(先土器)時代(3万5000年前から1万5000年前)

 世田谷の地に始めて人が現れたのは、今から約35,000年前のこと。人々は、移動しながら狩猟・採集によって食糧を獲得する生活をしており、世田谷区では、嘉留多(かるた)遺跡(成城1)・堂ヶ谷戸遺跡(岡本3)・瀬田遺跡(瀬田1)等の国分寺崖線沿いで旧石器時代の痕跡が見つかっている。国分寺崖線は沖積低地に望む高台で眺望がきき、崖線下には湧水があり、生活に適していたため、国分寺崖線沿いに多くの遺跡が分布していると考えられる。

縄文時代(1万5000年前から2500年前)

 世田谷の遺跡の中で最も多い縄文時代の遺跡は、今から約15,000年前から始まり、国分寺崖線及び台地内陸部の中小河川沿いに分布している。世田谷区内最古の土器は、縄文時代草創期の隆起線文(りゅうきせんもん)土器で、根津山遺跡(代田4)から出土している。縄文時代早期から続いていた気温の上昇による海進(縄文海進)が進み、世田谷区も海に近くなると、多摩川に面した瀬田遺跡、六所東(ろくしょひがし)遺跡(野毛3)で小規模な貝層が形成され始める。中でも瀬田遺跡は、多摩川最奥部の貝塚として著名である。

 中期になると遺跡数が急激に増加し、烏山川流域の桜木遺跡(桜1)や仙川流域の大蔵遺跡(大蔵3)などで、各水系沿いに大集落が営まれる。中期末頃からは、気温が下がり始め海岸線が遠のくにつれて遺跡数も減少し、晩期になると人々の生活の痕跡は極僅かとなる。

縄文時代の遺跡分布図

弥生時代から古墳時代初期(2500年前から3世紀中期頃)

 弥生時代(約2,500年前)の遺跡は、中期後半頃になると幾つかの集落が形成されるようになる。武蔵野面の堂ヶ谷戸遺跡、瀬田遺跡などでは環濠(かんごう)集落、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)群などが見つかり、立川面の喜多見陣屋遺跡(喜多見1から4)、宮之原遺跡(喜多見4)などの大集落が確認されている。

 世田谷に古墳が出現するのは4世紀末頃で、砧地域では7世紀末まで、野毛地域では6世紀初め頃まで造営が継続する。

 東京都指定史跡である野毛大塚古墳は、墳丘の全長82メートル、高さ約11メートルで前方部の脇に方形の造出部を設ける比較的規模の大きな帆立貝形古墳である。全長8メートルの割竹形木棺から出土した大量の副葬品には銅鏡、鉄製甲冑、鉄刀・鉄剣・鉄鏃(てつぞく)などがあり、国重要文化財にも指定され、古墳被葬者の畿内王権(きないおうけん)との関係性や社会的地位の高さを物語っている。

 6世紀後半から複数の埋葬(追葬)ができる横穴式石室をもった古墳が登場する(喜多見稲荷塚古墳、大蔵古墳群、殿山古墳群など)。7世紀中頃には、等々力横穴墓群の様な、崖線や谷底斜面などを利用して横穴墓が集団墓として造営されるようになる。

野毛大塚古墳

世田谷デジタルミュージアム

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