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世田谷の歴史

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中世の世田谷

掲載日:2019年7月1日

2.関東吉良氏とその時代-中世後期-

関東吉良氏の誕生

 室町時代に世田谷を支配したのは関東吉良氏である。同氏は、室町幕府の足利将軍家の一族で、三河国吉良庄(みかわのくにきらのしょう、現愛知県西尾市)の地頭職となった足利義氏の子・義継を祖とする。

 室町時代、奥州探題を務めた吉良氏が、室町幕府3代将軍の義満の代に、鎌倉公方・足利氏の招きによって、関東に移り住んだと伝えられる。その後、世田谷を本拠地としたことから、奥州吉良氏あるいは関東吉良氏と称されるようになる。同じく義氏の子・長氏は三河吉良氏の祖とされており、その子孫は江戸時代に忠臣蔵で有名な吉良上野介であり、関東吉良氏とは別の系統にあたる。

足利一門関係図

世田谷と吉良氏

 世田谷と吉良氏の関係が確認できるのは吉良治家の頃からである。治家は永和2年(1376)、鎌倉鶴岡八幡宮に武蔵国世田谷の上弦巻の半分を寄進しており、吉良氏が世田谷に所領を持っていたと確認できるものの、この時期に治家が世田谷に居住していたかは不明である。

 その後の応永33年(1426)、深大寺の僧の記録に「世田谷吉良殿」とあり、この頃には吉良氏が世田谷に居館を構えていたと推測される。

 16世紀に入ると、武蔵国に勢力を持っていた山内上杉氏や扇谷上杉氏らに代わって、小田原の北条氏が国内を支配するようになった。この頃、吉良氏も北条氏の勢力下に入ったものと考えられる。北条氏は、吉良氏を足利一門につらなる高い家柄として特別に扱った。吉良氏は世田谷領と蒔田(まいた)領(現神奈川県横浜市)に所領を持ち、「世田谷殿」あるいは「蒔田殿」と呼ばれていた。世田谷城主の吉良頼康は、北条氏出身の女性を母とする氏朝を養子とし、その氏朝の妻も北条氏から迎えており、強い関係を結んでいることが分かる。

 吉良氏の本拠地・世田谷は、北条氏の居城・小田原と関東支配の重要な拠点である江戸城とを結ぶ軍事戦略上の重要な交通路であった。そのため、北条氏は天正6年(1578)、世田谷に新宿を開き楽市とする「楽市掟書」を発給している。この楽市は六斎市(ろくさいいち)であったが、江戸時代には歳の市に姿を変え、現在のボロ市に受け継がれている。

世田谷吉良氏系図

北条氏の滅亡と吉良氏

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡すると、北条氏と姻戚関係のあった吉良氏朝は、下総国生実(しもうさのくにおゆみ、現千葉県千葉市)に逃れた。

 関東に入国した徳川家康は、旧家や名族の者たちを家臣に取り立て、吉良氏朝の子・頼久も旗本に加え上総国寺崎郷(かずさのくにてらざきごう、現千葉県長生郡睦沢町)に領地を与えられている。一方、父・氏朝は世田谷弦巻の実相院に隠棲(いんせい)することとなった。旗本として取り立てられた吉良氏ではあったが、名門の「吉良」の名字を名乗ることは許されず、「蒔田」の名字を名乗ることとなった。

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