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世田谷の歴史

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近世の世田谷

掲載日:2019年7月1日

1.彦根藩世田谷領の成立

近世前期の世田谷

 江戸時代のはじめ、世田谷のほとんどの村は幕府領となっており、代官・松風助右衛門の支配下におかれた。寛永年間(1624から1643)に入ると、大幅な領主替えが行われ、世田谷の多くの村が幕府領から大名領や旗本領、増上寺領に替わった。たとえば寛永10年(1633)には、近江国彦根藩藩主井伊直孝が世田谷領内に15か村(のち、20か村)を与えられ、現区域の半分近くが彦根藩領となった。

 この彦根藩領20か村の代官として取り立てられたのが、吉良氏の旧臣・大場氏である。もっとも、当時本家の当主がまだ幼かったためか、代官職についたのは同族の大場市之丞であった。18世紀半ば、4代目市之丞が年貢未納の責任を問われ、追放となると、替わって大場本家7代目の当主・六兵衛が代官となった。以後、大場家は幕末まで代々世田谷代官を世襲した。現在、世田谷一丁目にある世田谷代官屋敷は、彦根藩領20か村の代官を世襲した大場家の役宅である。

大場家住宅主屋及び表門

 また、喜多見村には大名・喜多見氏の陣屋(城を持たない小大名などの屋敷)が存在した。喜多見氏は武家の名門江戸氏の末裔である。小田原攻めののち、家康の御家人となった喜多見勝忠は、畿内の幕領支配を担い、畿内の村々と喜多見村・駒井村(現狛江市)に合わせて2000石の知行地を与えられた。勝忠の孫・重政の代には、5代将軍綱吉に重用され2万石の大名にのぼりつめ、喜多見藩藩主となっている。しかし、元禄2年(1689)、喜多見氏は一族の刃傷事件により御家断絶となった。

 江戸時代前期、村々においては新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増した。元禄8年から14年にかけては、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定した。このとき確定した村高は明治維新まで変更されることはなかった。

 耕地の開発を促進するひとつの要因となったのが用水の整備である。六郷用水(次大夫堀)は、慶長16年(1611)、多摩川の水を和泉村(現狛江市)から引き入れて開削されたもので、もともと六郷領(現大田区)の開発を目的として作られた。しかし、世田谷領村々でも余水を使用することが許され、喜多見村、下野毛村をはじめとした、用水が通る村々では六郷用水の水を利用した。

 また承応年間には、江戸市中の飲用水の不足を解消するために玉川上水が開削された。玉川上水が世田谷区内を通過するのは、代田村・下北沢村地内に限られるが、玉川上水からは多くの分水が引かれ、区内の村々を潤した。

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