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世田谷の歴史

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近世の世田谷

掲載日:2019年7月1日

2.村人の生活

江戸と世田谷

 世田谷の農地は、その大部分が畑地であった。村々では、麦・稗などの雑穀や、大根や芋、茄子などの野菜を栽培していた。これらの作物は自家消費されたほか、大消費地江戸へ出荷され、農民にとって現金収入を得る貴重な機会となっていた。野菜を江戸へ運んだ農民たちは、その帰りに武家屋敷や町屋から糞尿を汲んで帰り、肥料(下肥)とした。このように、野菜を供給しそこから肥料を得るというあり方が、江戸近郊農村としての世田谷の特徴であった。

 一方、農村地帯であった世田谷の村々でも酒醤油商いや材木商売などの農間余業が見られた。しかし、これらの店で扱われる品物は、醤油や草鞋(わらじ)、菓子をはじめとした普段遣いのものが中心であった。こうした中で、世田谷のひとびとにとって欠かせなかったのが世田谷市町(現在のボロ市)である。

 ボロ市は、天正6年(1578)に後北条氏が世田谷新宿(現在の世田谷代官屋敷周辺)に開いた楽市が起源とされる。この市は、当初一と六のつく、一ヶ月に六日間開かれる六斎市として賑わいを見せた。しかし、江戸時代に入ると江戸の商業圏に包摂されたことなどにより、世田谷の六斎市は衰退し、12月15日だけ開かれる歳の市となった。この歳の市では、正月用品や日用品のほか、農具が多く扱われた。

 また、江戸時代も後期になると、世田谷からは優れた文人たちが輩出した。たとえば大蔵村の名主の家に生まれた石井至穀(いしいしこく)は、江戸に出て漢学や儒学を学び、のちに御家人株を譲り受け幕臣となった。至穀は屋代弘賢(やしろひろかた)のもとで『古今要覧』(ここんようらん)の編纂に従事したほか、世田谷にかかわる多くの著作を残し、書物奉行にまで昇進した。

 一方、多摩川という名勝をかかえた世田谷には、江戸から多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪れた。文人たちは、多摩川の景勝地を題材に詩歌を詠み、多くの紀行文を遺した。また、将軍もたびたび多摩川を遊覧した。天保3年(1832)、のちに12代将軍となる家慶が訪れた際には、瀬田村行善寺を御膳所とし、玉川唐紙(からかみ)の紙漉きの観覧や鮎漁を行っている。

 その他にも、江戸やその近郊の名所を絵入りで紹介した地誌『江戸名所図会』では、森巌寺(代沢3)や豪徳寺(豪徳寺2)、九品仏浄真寺(奥沢7)をはじめとした多くの神社仏閣・名跡が紹介されている。こうした都市近郊の名所は、江戸の人々を引きつけたのである。

世田谷デジタルミュージアム

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