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世田谷の歴史

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明治・大正の世田谷

掲載日:2019年7月1日

農村から近郊住宅地へ

多摩川べりの別荘と行楽

 明治40年(1907)、玉川電気鉄道が渋谷-玉川(現二子玉川)間を開通した。当時、東京市内における建築や土木工事の増大につれて砂利の需要が急激に増え、これを多摩川から大量に運搬する必要から施設された。そのため「砂利電」とも呼ばれた。後には砂利だけでなく旅客の輸送も担うことになったが、すぐさま人々の生活の足として普及したわけではなかった。むしろ東京市中の人々が郊外へくり出すための行楽の手段として次第に利用されるようになった。多摩川沿いでは料理屋、遊園地の開設、演芸場や遊具の設置などもあり、市内から近い行楽地として賑わった。一方で、世田谷の兵営に勤務する人たちの通勤の足としても利用され、しばしば軍人姿の客を目にすることもあった。

 また、現在の二子玉川駅西側の国分寺崖線上は、政財界の富裕層からも郊外住宅に適した土地として注目され、高橋是清(元首相)や清水揚之助(清水組副社長)、小坂順造(信濃毎日新聞社長)といった人々が住宅を建てた。もっともそれらは日常的な住宅というよりも週末を過ごすための別荘のような使われ方だった。

玉川電気鉄道沿線案内図(大正末から昭和初期)

郊外住宅地化のはじまり

 大正中期から昭和初期にかけては、京王電気鉄道(現京王電鉄)、目黒蒲田鉄道(現東京急行電鉄)、小田原急行鉄道(現小田急電鉄)など比較的大型の電車が次々に開通し、沿線の宅地化も鉄道会社によって早くから開発された。役人や大企業の正社員といった「新中産階級」と呼ばれる人々をはじめ、良好な環境である郊外での生活を求めて、郊外から電車で都心に通勤・通学するようになった。

 さらに、大正12年(1923)に発生した関東大震災は、これに一気に拍車をかけた。密集した住宅が少なかった世田谷は、東京市内に比べ、比較的被害が少なかった。そのため、震災で焼け出された人々の中には、都心よりも家賃の安い近郊へそのまま定住し、そこから都心へ通勤する人々が少なくなかった。このような職住分離が望ましい形とされ、郊外の住宅地化、簡単に言えば都心と郊外の機能分化が進み始めた。

 この住宅地化は、地元の人々が自ら行った耕地整理事業や区画整理事業によって土地整備が進められたことも大きい。特に玉川村で実施された「玉川村円耕地整理事業」は面積約一千町歩にわたり村域のほぼ全体を覆う極めて規模の大きな耕地整理であった。農家によっては、これを機に農業を継続するよりも宅地に転換した方が有利と判断する者も現れた。

 鉄道の開通と震災による宅地化の進展は、農村であった世田谷の村々と東京との距離を縮め、農村から郊外への住宅地として発展した大きなきっかけであった。

世田谷デジタルミュージアム

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