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世田谷の歴史

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昭和の世田谷

掲載日:2019年7月1日

昭和時代の世田谷

世田谷区の成立

 大正時代以降、東京都市圏が拡大してくると、明治時代に作られた地方制度は次第に実態に適合しないものになってきた。道路や水道設備など市町村の境界を越えて一体的に整備する必要性が出てきた。昭和7年(1932)、東京市の市域拡張によって、5郡82町村を合併して20区とし、従来の15区と合わせて35区となった「大東京」が実現した。

 この時、荏原郡に属していたうちの世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村が合併し、世田谷区が誕生した。昭和11年(1936)、市域拡張から除外され、かねてから市域編入運動を展開していた神奈川県北多摩郡の千歳村、砧村が東京市への編入を勝ち取り、現在の区域が形をなした。

 世田谷区成立に際しては様々な議論が持ち上がり、交通の利便性が低かった当時、とりわけ区役所の位置は大きな争点でもあった。地理的な中心地の弦巻や、交通の要所であった三軒茶屋などの意見もあったが、結局若林の世田谷町役場に落ち着いた。新しい区役所職員は町役場時代の倍以上となり、バラックを一棟増築して発足したのであった。

昭和の戦争と地域社会

 この時期、日本は満州事変を契機として、日中戦争、そして太平洋戦争へ突入していく時代でもあった。昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まると、日本は広範な領域を勢力下に置いたが、ミッドウェー海戦での敗北後、その勢力は徐々に切り崩された。

 戦時中、原料資材や労働力までもが軍需生産に向けられたため、生活物資は不足する一方だった。配給制はマッチと砂糖から始まり、米、衣料品、酒類、魚類、そして塩、味噌、醤油も切符配給制とされ、生活必需品全般に及んだ。しかしながら、戦局が悪化するにつれて品不足のために配給制は形骸化していた。中でも食料品の遅配・欠配はひどく、学童疎開を決心させる理由の1つにもなった。疎開をすればご飯や甘いおはぎを食べることが出来るという先生や新聞の説得のあったことも事実である。区内の学童疎開は10191名を数え、新潟県・長野県・秋田県に集団疎開した。

敗戦

 昭和20年(1945)になると、2月16日をはじめ、東京は数回の空襲に見舞われた。5月24日25日の空襲は250機以上のB29爆撃機により東京山の手一帯が焼夷弾攻撃を受け、区内では軍事施設の集中する太子堂・三宿周辺が爆撃を受けた。区内における2日間の被害は、死者60名、重軽傷651名、全焼10718戸、半焼173戸、罹災者43213名と惨烈を極めた。

 同年7月には連合国からポツダム宣言が発せられ、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。また、ソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告してきたことから、8月14日にポツダム宣言の受諾が決定された。翌日の正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表され、ここに太平洋戦争は終結した。

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