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世田谷の歴史

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近世の世田谷

掲載日:2019年7月1日

3.幕末の動乱と明治維新

黒船の来航

 18世紀末以降、ロシアやイギリス、アメリカの船が相次いで日本近海に現われ、幕府は外交政策の変更を迫られるようになる。世田谷の村々もこれらの動きと無縁ではいられなかった。

 弘化4年(1847)、相模国の海岸警備を幕府から命ぜられた彦根藩は、三浦半島沿岸の警備に当たることとなった。世田谷領の村々からは、御用荷物運送のため、多くの人馬が動員された。上野毛村名主の記録によると、この年の8~9月にかけて世田谷から動員された人馬の延べ人数は、人足2901人、馬98匹余りとなっている。嘉永6年(1853)、アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し開国を要求、翌年には日米和親条約が調印された。この時も世田谷から多くの人馬が浦賀に派遣され、警備にあたった。

 このような中、大老に就任したのが彦根藩第13代藩主井伊直弼(なおすけ)である。直弼は、安政5年に大老に就任すると、翌年、天皇の許しを得ずに日米修好通商条約に調印した。また、将軍継嗣(けいし)問題にも決着をつけ、反対派を次々と処罰した(安政の大獄)。このとき幕府による尋問を受けた長州藩士・吉田松陰は、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃計画を自白し、死罪となった。松陰の墓は松陰神社(若林4)にある。

井伊直弼画像

桜田門外の変

 安政7年3月3日、上巳(じょうし)の節句を祝うために登城中だった直弼は、桜田門外で水戸浪士らに襲撃され落命した。領主である直弼の死は、世田谷のひとびとに大きな衝撃を与えた。世田谷代官大場与一の妻・大場美佐は、45年の長きにわたって日記を書き継いだが、その書き始めの年は安政7年であった。美佐は、「御屋敷ニて変事出来致候事」と事件当日の様子を書き記している(「大場美佐の日記」)。

大場美佐

世田谷の農兵隊と幕府の瓦解

 攘夷(じょうい)運動の高揚により諸外国との衝突が度重なると、幕府は警備体制の強化を迫られることとなった。文久3年(1863)には、品川御殿山に御台場を築き、翌年には江戸周辺の警備補充のため、農兵の取り立てを実施した。同じ頃、世田谷でも農兵の取り立てが行われ、砲術稽古が行われている。世田谷の農兵隊は、慶応2年(1866)に勃発した武州世直し一揆でも領内の治安維持に活躍した。

 慶応3年(1867)10月、大政奉還が行われ、260年以上続いた徳川の世が終焉を迎える。王政復古の大号令、戊辰戦争を経て、新政府により中央集権国家確立に向けた諸改革が次々と進められていった。

ゲベール銃
画像 ゲベール銃

 

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