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明治時代の世田谷

掲載日:2019年3月19日

明治のせたがや

 江戸時代の終わりごろ、嘉永6年(1853)、ペリーが黒船で日本にやってきました。ペリーは日本に開国を求めてきましたが、これまで日本は鎖国してきたので、どうしたらいいか、幕府はみんなに意見をもとめました。
 鎖国をやめて開国したほうがいいという意見、開国しないほうがいいという意見など、さまざまな意見があり、みんな日本のこれからを考えてさまざまな活動をしました。
 吉田松陰(しょういん)は、開国したほうがいいと強く主張した人です。松陰は黒船を遠くから眺めたことで、外国の社会や技術に興味をもったようです。幕府をなくして、開国することを強く主張しましたが、幕府のえらい人をおそおうとしたことがわかったため、死刑になりました。若林にある松陰神社は、名前のとおり、吉田松陰をまつっている神社です。
 吉田松陰に死刑を命じた人が井伊(いい)直弼(なおすけ)です。直弼は幕府の大老というえらい人でした。直弼は彦根藩の藩主でもありました。吉田松陰に死刑を命じた後、桜田門外でおそわれ、亡くなりました。井伊直弼のお墓は豪徳寺にあります。
 松陰神社と豪徳寺は、とても近くにあります。死刑を命じた人と、命じられた人のお墓が近くにあるということになります。
 慶応4年(1868)に幕府はなくなり、江戸時代から明治時代にかわりました。そのとき、世田谷区はまた東京都ではなく、武蔵県という県のいちぶでした。
 そのころの世田谷はいまのように、家やおみせがたくさんあるようなところでなく、みわたすかぎりいちめんが畑だったそうです。畑では麦や大豆、なす、大根などを育てていました。
 また、農家では、かいこという虫を育てていました。かいこの繭は絹(いい糸)になるからです。
 そのころの世田谷でかつやくした人で、斎藤(さいとう)寛斎(かんさい)という人がいます。
 さいとうかんさいは世田谷区で一番最初のしょうがっこうをつくったひとです。たいしどうごうがくしょという小学校を太子堂につくりました。たいしどうごうがくしょは現在の若林小学校にあたります。
 また、宇奈根には小泉健次郎という人もいました。そのときはごく一部の人たちだけで政治が行われていました。国会もなく、ふつうの人は政治に参加できませんでした。小泉健次郎は、みんなでえらんだ人(議員)が政治をするべきだと考えて、自由民権運動を行いました。

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