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喜多川歌麿墓

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史跡・名勝・天然記念物

喜多川歌麿墓 (きたがわうたまろはか)

資料ID 21718
文化財指定 都指定 旧跡(旧跡)
所在地 北烏山4丁目28番1号 [マップで表示

 喜多川歌麿は、本名を北川信美といい、宝暦3年(1753)に生まれた。その出生地については、諸説あって明らかではない。はじめ、師匠・烏山燕石(豊房)の名前から一字をとって豊章と称し、北川豊章・烏山豊章・烏豊章と署名した。天明元年(1775)頃、歌麿と改名し、その時期あたりより、美人画の先人・北尾重政や鳥居清長らの影響を脱して、自己の作風を示すようになった。寛政3年(1791)39歳の時、大首絵と呼ばれる胸部から上だけを描く美人画を発表し、人気を博した。その絶頂期には、蔦屋重三郎をはじめとする40軒余りの版元より制作の依頼を受けたという。彼の残した作品は、版画だけでも2600余点を数える。代表作に「婦女人相十品」「夫人相学十躰」「青楼十二時」などがある。文化3年(1806)9月20日、死去。享年54歳。当時、浅草にあった専光寺に葬られたが、関東大震災で同寺が焼失し、昭和3年(1928)4月の移転に伴い、現在地に改葬される。本来の墓石は「北川」と彫ってある中段の台石のみである。

世田谷デジタルミュージアム

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