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小泉次大夫吉次

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歴史

小泉次大夫吉次 (こいずみじだゆうよしつぐ)

資料ID 36533

小泉次大夫は、天文8年(1539)駿河国富士郡小泉郷に生まれた。その生い立ちについて明確なことは判っていないものの、次の2説が伝えられている。駿河国の守護であった今川氏に代々仕え、土木事業を得意とし樋役を務めた植松家の出身である説と、植松家と親戚関係にあった小泉家出身の説である。小泉次大夫が生まれた富士郡は、春になると富士山の雪解け水が土地の河川や用水に流れ込み氾濫してしまうところで、人々の治水に関する関心は高く、鎌倉時代既に灌漑用水が建設されていた土地柄でもあった。土木技術に優れていた植松家と小泉次大夫に何らかの関係があって、次大夫自身もこうした技術を身につけていたと考えられる。
 天正18年(1590)、徳川家康は関東に入国後、ただちに未開発地の開拓をすすめた。農業生産の拡大は徳川家康にとって大きな課題であり、これを解決するための多摩川治水工事はきわめて重要な事項であった。
小泉次大夫は、用水開削などの土木技術に明るい者として代官に任命され、富士郡から橘樹郡小杉村に移り住んだ。慶長2年(1597)に多摩川沿岸を視察し、その年のうちに下流から上流に向かって測量と杭打ちを開始した。多摩川右岸流域の稲毛、川崎領および左岸の世田谷、六郷領の交互に測量・くい打ちを行い、これが終わると用水本流の開削が行われた。本流の工事は慶長4年(1599)から10年間を要し、そのうち世田谷では慶長7年(1602)から5年の歳月をかけている。続く各村の田畑へ分水する支流の開削がおこなわれ、測量から分水の開削終了まで、実に15年をかけた次大夫晩年の大工事であった。

世田谷デジタルミュージアム

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