掲載日:2020年7月9日
今からおよそ16,000年前に始まった縄文時代初頭以来、人々は土をこね、形作り、焼きあげたやきものを使用してきました。
時代とともにその形や素材、焼き方に改良を重ねて変化させながら、「調理(煮炊)」・「貯蔵」・「食事」の際の器として、「運搬」のための器として、さらには「お墓」の容器や供える副葬品として、多様な用途で使用してきました。
原始・古代の遺跡から出土する遺物の中で、土器は代表的な遺物の一つですが、その特徴によって時代や時期を特定する重要なタイムスケールでもあります。土器は遺跡を知る上で基本的な情報を我々にもたらしてくれる貴重な情報源といえます。
例えば、縄文時代と弥生時代の名称は、その時代に特徴的な土器の名称からつけられています。
(縄文:縄目文様のついた土器、弥生:弥生町で最初に見つかった縄文に後出する土器)
さらに土器のない旧石器時代は、先土器時代や無土器時代と呼ばれることもあります。
土器の変遷、移り変わりを確認することは、歴史(とくに考古学)研究において年代を決める指標となるためとても重要であり、あらゆる研究の基礎となります。
世田谷区の歴史を知る上でも重要であるため、本展示は“世田谷区内の遺跡から出土した土器”をとりあげます。実物の写真を並べて形や文様・装飾の特徴に着目しながら、世田谷の縄文土器から古代の灰釉陶器までの変遷を概観したのち、最後に簡単な解説を入れた模式図による変遷表を附しました。
「土器」 について |
縄文時代から平安時代までのやきものとして本来、土器、須恵器、緑釉陶器、灰釉陶器といった種類があります。 やきもの。時代によって、縄文土器、弥生土器、土師器(はじき:古 墳時代)、土師質土器(奈良時代以降)などがあります。 の還元焼成で製作したやきもの。4世紀末頃、朝鮮半島から渡来 した技術です。 くられました。鉛を溶媒に用いるため比較的低火度 で釉薬が溶けるので鉛釉陶ともいい、やや軟質で日 用品には向きません。 つくられました。 |
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土器の について |
土器の「器種(きしゅ)」とは? 土器の「型式(けいしき)」とは? とって、勝坂式や弥生町式などの型式名が設定されます。 |
土器の部分名称 (模式図)
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凡例 |
土器の表面に縄(繊維の束を撚ってつくったもの)・貝殻・木や竹の棒・ヘラなどを使って文様を描いたり、粘土を貼り付けるなど、様々な装飾が施されている土器。
近隣で採取できる粘土を紐状に巻きあげるなどして成形し、野焼きによる酸化焼成で製作した軟質な土器。
日常的に使用される簡素な文様の粗製土器と、祭祀などに使用される装飾が施された精製土器に分けられます。
鉢(浅・深)、壷などの器種が出土します。
草創期 (約16,000年から 11,000年前) |
日本列島における最古級の土器。出土例は土器破片のみで点数も少ないです。
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早期 (約11,000年から 7,000年前) |
尖底(せんてい)の深鉢などが出土します。 堂ヶ谷戸遺跡出土深鉢は底部が欠損しているが、尖底であると考えられます。
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前期 |
平底の鉢や深鉢が出土しています。
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中期 |
世田谷における縄文時代集落の最盛期であり、土器出土数も多いです。 明治薬科大遺跡出土の両耳鉢(りょうじはち)は、両側に把手(耳)が付いた鉢で、地面に埋め込んで使用されました。
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後期 (約4,500年から 3,000年前) |
中期の最盛期を経て後期から集落数、遺物出土数が減少します。 大蔵遺跡出土の深鉢は胴部下部が欠損していて、実際はもう少し底部に向けてすぼまる形状をしていると考えられます。 奥沢台遺跡出土の注口土器が区の有形文化財(考古資料)に指定されています。
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晩期 (約3,000年から 2,500年前) |
世田谷区内において縄文時代晩期の土器小破片は出土しているものの、出土数は減少しています。集落自体が減少していると考えられます。 |
縄文土器の系統を継ぎ、櫛歯やヘラなどの工具で文様が描かれた軟質土器です。
次第に無文化していく傾向もみられます。赤色などの彩色が施されることもあります。
貯蔵用の壷、煮沸用の甕、盛り付け用の高坏が基本の構成として出土します。
前期 (約2,500年から 2,000年前) |
世田谷区では発見されていません。 |
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中期 (約2,000年から 1,900年前) |
胴部に櫛描文(くしがきもん)や口縁部に刻み目(きざみめ)が施されたり、装飾として粘土紐や粘土粒を貼り付けた、棒状や円形の浮文(ふもん)が施されます。 喜多見陣屋遺跡出土の壷は口縁部から頸部が欠損しています。
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後期 (約1,900年から 1,750年前) |
食膳用の高坏、煮沸用の甕、貯蔵用の壺などが出土しています。平底です。
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縄文土器から弥生土器の系統を継ぐ軟質土器の土師器(はじき)と、大陸から渡来した技術系統を継ぐ硬質土器の須恵器(すえき)があります。
土師器に関しては、住居でカマドが使用されるようになり、カマドに取り付けて使用する甑などが出現します。
また食膳用の坏、埦や供献用の高坏、器台などが出現します。
須恵器に関しては4世紀末葉頃に朝鮮半島から渡来した技術で、良質な粘土を使用するため生産地が限られます(大阪府陶邑(すえむら)窯、愛知県猿投(さなげ)窯、静岡県湖西(こさい)窯など)。坏、蓋、壷、平瓶、提瓶、皿などの豊富な器種が出土します。
前期 (約1,750年から 1,600年前) |
平底が主体であった弥生土器に対して丸底の小型壷が出現し、また甑や坏、高坏や台付甕が出土します。
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中期 (約1,600年から 1,500年前) |
高坏や平底の甕や壷、丸底の小型壷などが出土します。 野毛大塚古墳の出土品が国の重要文化財に指定されています。
前期末葉から中期初頭頃に須恵器が出現します。 喜多見中通南遺跡出土の高坏は、脚部に長方形の透穴(すかしあな)が三方に施されています。
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後期・終末期 (約1,500年から 1,300年前) |
須恵器の影響を受けた土師器坏などが出現します。
須恵器は坏にかぶせる蓋や、壺に蓋と高台がついた蓋付高台壷、頸部が細長くなった長頸壷(ながくびつぼ/ちょうけいこ)、𤭯、平瓶、提瓶などが出土します。
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縄文土器、弥生土器、土師器の系統を継ぐ軟質土器の土師質土器。
文様は施されなくなるが、出土遺跡の性格(機能)や在所を記したような文字や記号を、墨書きした墨書土器(ぼくしょどき)が出現します。
古墳時代以来の須恵器も引き続き出土し、またロクロ成形した器面に釉薬を施して焼成した緑釉陶器や灰釉陶器が出現します。
奈良・ 平安時代 (約1,300年から 700年前) |
古墳時代前半と比べて器種は激減し、次第に出土数も減少していきます。 文様は施されないものの、器面をヘラ磨きやケズリで調整したあとが見られます。 堂ヶ谷戸遺跡や瀬田遺跡などの大規模集落遺跡から墨書土器が出土しています。 諏訪山遺跡出土の甕は骨蔵器として用いられました。
須恵器のほか、灰釉陶器、緑釉陶器が出現します。 器種は坏、埦、皿、広口瓶、小壷などが出土しています。 世田谷区では喜多見陣屋遺跡で唯一緑釉陶器が出土しています。 |
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本展示では、世田谷区内遺跡から出土した土器の写真を掲載しながら、縄文時代に土器が登場してから平安時代の灰釉陶器にいたるまでのおおまかな移り変わりをまとめてきました。
土器の器種も時代によって新たに出現したり消滅したりと変化があり、それぞれの器種の形そのものも時代によって長大化したり脚部が付いたりと変化します。また施される文様や装飾は、その位置や使われる工具、技術が様々に変化していきます。
時代によって、生活に必要な器種が製作され、使用にあたって効率の良い形に変化し、当時の生活様式を表現する文様や装飾が施されていくようです。
土器編年を確立することで、土器とともに出土する遺物や土器が出土する遺跡の年代を求めることが可能になり、また当時の生活様式の変遷や地域間の交流などを比較考察することができます。
最後に、世田谷区内遺跡出土土器の移り変わりを解説付きの模式図表で示しました。
本展示は前述した通り歴史(とくに考古学)研究の基礎となる土器の移り変わりについて、世田谷区内遺跡出土の土器を対象としてまとめたものになります。今後の研究や調査のための基礎知識としてまとめたものですので、世田谷の遺跡を調べる際などにご活用いただければ幸いです。