掲載日:2021年3月16日
室町時代、世田谷には吉良氏(きらし)という武将がいました。今から600年ほどむかしに、吉良氏は世田谷に住み始め、のちにこの場所に世田谷城を築きました。
この時代のお城は、名古屋城のような天守閣はありませんでした。また、お城のまわりには、敵の攻撃に備え、土を盛り上げた土塁や、深く掘った空堀が築かれました。
お城の中心地は、現在の豪徳寺の敷地内にあったと考えられています。しかし、お城などが築かれた時期や、どのような建物があったのかということはまだ判明していません。
室町時代、関東地方において北条氏が有力な戦国大名となりました。これにともなって、世田谷の吉良氏も、北条氏に従うことになりました。
その後、豊臣秀吉によって北条氏が倒されました。このとき、吉良氏は世田谷城を離れ、下総国(しもうさのくに/現在の千葉県)へのがれました。
現在、このお城の一部は、①世田谷区立城阯公園(せたがやくりつじょうしこうえん/遺跡名は世田谷城跡)として整備され、一般に公開されています。
②城山通りから③豪徳寺総門(山門)に向けて進むと、その途中には、敵の攻撃に備えて土を盛り上げて築いた④土塁(どるい)を豪徳寺の参道から見ることができます。
撮影:清水襄
撮影:清水襄
下記画像は、「世田谷豪徳寺」(『江戸名所図会』)より一部を加工しています。
画像:①豪徳寺広域図(右)
画像:②世田谷城跡拡大図(左)
江戸時代にまとめられた『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』には、江戸(現在の東京都)とその周辺の名所がさし絵入りでえがかれています。今でいう観光マップというところでしょうか。上記の①絵は、世田谷の豪徳寺をえがいたものになります。この絵を②拡大すると、画像中央部の斜面地に「吉良氏城址(きらしじょうし)」という文字があるのがわかります。これは「吉良氏が築いたお城のあとち」という意味になります。