掲載日:2021年3月31日
今から500年ほどむかしの室町時代、世田谷には大場氏(おおばし)という武士がいました。この大場氏は、世田谷城の主(あるじ)であった吉良氏に仕えていた家臣の一人でした。
このころ、吉良氏は関東の戦国大名であった北条氏に従っていました。北条氏は吉良氏の領地であった世田谷に、人が宿泊したりするための宿場(しゅくば)を新たにつくりました。さらに、宿場を発展させ、商人に自由に商売させるしくみとして、楽市(らくいち)を開きました(①北条氏政楽市掟書)。楽市は、かたちを変えながら、ボロ市として現在に伝わっています(②ボロ市)。
豊臣秀吉によって北条氏が倒されると、それに従っていた吉良氏も世田谷城を離れることになりました。このとき、大場氏は世田谷村に残り、武士から農民になりました。
その後、徳川家康は江戸幕府を開きました。幕府は世田谷の約半分の土地を彦根藩(ひこねはん/現在の滋賀県彦根市)の藩主であった井伊家(いいけ)に与えました(③江戸時代の世田谷領)。井伊家は、世田谷領の支配を進めるため、大場氏を世田谷代官に任命しました。世田谷代官の役割は、(1)税金(年貢=米)を集めて井伊家におさめること、(2)領地の治安の維持などがあげられます。
世田谷代官に任命された大場氏は、世田谷新宿(しんじゅく/現在の世田谷区上町)に屋敷を建てました。以降、明治時代の初めごろまで、代官屋敷として使われました(④大場代官屋敷主屋)。
江戸時代の終わりごろ、世田谷代官となった大場弥十郎(おおばやじゅうろう/⑤大場弥十郎)は、当時の代官の暮らしぶりや、年中行事(ひな祭りやすす払いなど)を記した歴史的に貴重な文献を後世に残しました。
③江戸時代の世田谷領
④大場家住宅主屋
⑤大場弥十郎