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せたがや歴史文化物語

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013世田谷の川の物語

 世田谷の西端をながれる多摩川は、水源を山梨県甲州市の笠取山に発し、上流域を丹波(たば)川、中流域を多摩川、下流域を六郷川といいました。大河であるため灌漑用水に利用することが困難であるうえ、度重なる洪水は耕地だけでなく周辺に住む人々に大きく影響を与えました。多摩川左岸に位置する世田谷と右岸に位置する神奈川県川崎市内に「等々力」「宇奈根」など同じ地名が存在していることはよく知られています。これは、多摩川の流れが変わり、村の中を川が流れるようになったため、対岸にある耕地を、同じ地名で呼んだことに拠ります。
 対岸に渡るために利用されたのは渡し船でした。世田谷と川崎の間には、登戸の渡し、二子の渡し、丸子の渡しなどがもうけられ、耕作地への行き帰りや祭礼の際などには御輿ものせて多摩川を渡りました。主要街道から多摩川に出たところに渡船場がもうけられており、川の氾濫によって流れが変わると渡船場も移動、街道も変更されました。
 多摩川の水を利用して掘削された用水施設に、次大夫堀があります。これは、慶長16年(1611)から約16年の歳月をかけて、川崎側の2ヶ領用水と共に開削がすすめられ、工事を指揮した代官・小泉次大夫の名前にちなみ、世田谷では次大夫堀(じだゆうぼり、じでいぼり)と呼ばれていました。もともと六郷(大田区)の開発のために作られたので六郷用水と呼ばれています。かつての次大夫堀は水量も多く、多摩川から迷い込んできたのか、アユやハヤなどが多く見られたといいます。農作業のはじまる春、用水の水通りをよくするため川浚いをし、水をせき止めると、おもしろいくらい魚がかかった、という思い出話をしてくれる古老の方もありました。


世田谷デジタルミュージアム

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