キーワード 軍事施設、玉川電気鉄道
世田谷は、江戸の近郊農村として大消費地に野菜などを供給していました。畑の作物を世話する人の姿や、川に掛けられた水車がのんびりとまわる、そんな農村風景がひろがっていたことでしょう。
こうした風景に大きな変化をもたらしたのは、明治20年代以降明治政府によって軍事施設が郊外に移転してきたことでした。世田谷の兵営は都市部との交通便の良い、現在の国道246号線、旧大山道周辺に集中しました。太子堂、三宿、池尻、上馬、下馬に造られた訓練施設、兵舎などで人口が増えると、水道などのライフラインの整備が急務となります。弦巻にある駒沢給水塔は、当時渋谷町に給水するために作られた施設で、世田谷区内の配水はされていませんでしたが、付近の兵舎にだけは特別に配水されていました。明治40年(1907)に玉川電気鉄道が敷設されると、周辺にはいち早く電気の利用が開始されました。この電車の終点は川崎との間に「ふたこばし」が架かるまでは二子玉川で、多摩川の鮎をたべさせる料理屋なども人気でした。