資料ID | 21859 |
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所在地 | 若林4丁目35番1号 松陰神社 公開 [マップで表示] |
松陰神社のある一角は、江戸時代、大夫山あるいは長州山と呼ばれていた。この名前の由来は、寛文12年(1672)、第2代萩藩主・毛利大膳大夫綱広在府の折り、長州藩が若林村の百姓から土地を購入し、抱屋敷を建てたことに由来する。
安政の大獄で死罪となった吉田松陰の遺骸は、当初、小塚原回向院(現在の荒川区南千住)に葬られたが、文久3年(1863)正月、松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文らの手により、頼三樹三郎、小林民部らの遺骨と共にこの地に改葬された。しかし、元治元年(1864)に禁門の変が起こり、幕府による長州征伐が行われると、この地の抱屋敷も没収され、敷地内にあった松陰らの墓も破壊された。
明治新政府が樹立され、明治4年(1868)藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を建て、明治15年(1882)には、旧藩主毛利元徳及び松陰の門人、旧知の者が墓の近傍に社を築いてその霊を祭った。これが松陰神社である。
境内には、吉田松陰らの墓があり、社殿の東側には、松下村塾の建物が再現されている。
【関連項目】
・吉田松陰 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21916/detail/]
・井伊直弼 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21915/detail/]