文字サイズ
背景色の変更

ここから本文です。

井伊直孝

  1. ホーム
  2. デジタルコレクション
  3. 井伊直孝
歴史

井伊直孝 (いいなおたか)

資料ID 22347
所在地 東京都世田谷区豪徳寺2丁目24番7号 豪徳寺 公開 [マップで表示

 江戸時代前期の江戸幕府重臣。掃部助・掃部頭と称す。天正18年(1590)、駿河国(現在の静岡県)に父・井伊直政の庶子として生まれる。慶長8年(1603)に徳川秀忠に仕え、同10年(1605)には従五位下掃部助となる。また、同15年(1610)、1万石の大名となり、掃部頭となる。
 慶長19年(1614)、大坂冬の陣において、病身の兄・井伊直継(後の直勝)に代理として井伊隊を率いて大坂へ出陣し、功績を挙げた。翌元和元年(1615)2月、徳川家康にの命によって隠居した直勝に代わり、直孝が父・直政の家督を継ぐように命じられた。直孝は一旦は断ったものの、家康の厳命にやむを得ず承知し、彦根2代藩主となった。このような経緯から、井伊家では、直政の家督を継いだ直孝を2代目とし、直勝は分家である安中藩(現在の群馬県)の初代とみなし、歴代当主に数えていない。
 元和元年(1615)5月、大坂夏の陣において抜群の働きをした直孝は、逐次加増されていき、寛永10年(1633)には世田谷領の15ヶ村(後に20ヶ村に加増)が江戸屋敷賄料として彦根藩に与えられると、井伊家は30万石の大大名となり、彦根藩の基礎を築くこととなった。また、彦根藩世田谷領の内にあった寺院である弘徳院(後の豪徳寺)は、井伊家の菩提寺に取り立てられることとなった。
 秀忠の死後、直孝はその遺命によって幕政に参与することとなり、万治2年(1659)に没するまで、江戸に在府して幕府に勤仕した。直孝の没後には、その長女である掃雲院によって、弘徳院は伽藍が整備され、寺号も直孝の法名「久昌院殿豪徳天英居士」に因み、「豪徳寺」と改められた。
【関連項目】
・豪徳寺 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21755/detail/]

世田谷デジタルミュージアム

Copylight(C)2019 Setagaya City.All rights reserved.