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吉田松陰

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歴史

吉田松陰 (よしだしょういん)

資料ID 21916

 天保元年(1830)8月4日~安政6年(1859)10月27日。吉田松陰は、幕末の思想家、教育者。天保元年(1830)年、長州藩士杉百合之助常道の次男として、長門国萩(現在の山口県萩市)に生まれた。幼名は寅次郎、名は矩方。松陰は号。5歳のとき、長州藩の山鹿流兵学師範の叔父吉田大助賢良の養子となり吉田家を継ぐ。
 幼少期から、兵学師範となるべく、兵学をはじめとして、様々な学問を学び、10歳の時には藩校明倫館で兵学を教授し、11歳の時に藩主毛利敬親の面前で『武教全書』の講義を行った。
 当時の世界の形成や日本を取り巻く情勢などにも目を向け、嘉永2年(1849)、20歳のとき外寇御手当御内用掛を命ぜられ、海岸防備の実情を巡視した。翌嘉永3年(1850)、九州の平戸、長崎などに遊学し、諸士と交流を広め、中国及び日本の海防について学んだ。翌年には藩主に従って、江戸に遊学し、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに学んだ。また、この年藩の許可を得ずに東北遊歴の旅に出て、翌年にかけて、水戸、会津、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、仙台、米沢などをめぐって、見聞、交遊を広めた。帰国後、萩にて7ヶ月の蟄居を命じられる。
 嘉永6年(1853)に10年間の諸国遊学が許され、江戸で遊学中にペリーの浦賀来航に遭遇する。藩主に時局への対応策を献策する一方で、海外視察のための密航を企てた。ロシアの軍艦が長崎に停泊していると聞くと長崎に向かうが、果たせず、翌安政元年(1854)ペリーが再訪すると、米艦に乗り込み密航を懇請するが入れられず、翌日浦賀奉行に自首した。長州藩での幽閉の処分となり、獄に繋がれることとなる。
 翌年には、病気療養を理由に、実家の杉家に預けられ、そこで幽囚生活を送ることとなる。この幽囚生活の間に、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など幕末・明治維新に活躍する人材の教育にあたった。松下村塾は、表向きは漢学塾であったが、松陰自身の実学志向の影響があり、当時の世界情勢や日本の実情、行く末について考究する実践的な思想教育の場であった。
 安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印をめぐって国内が混乱すると、松陰は幕府による勅許を得ない調印を厳しく批判し、藩に訴えかける一方、門下生を各所に派遣し、情報を集めさせる。この際に老中間部詮勝の襲撃など過激な内容も含まれ、藩は再び松陰を入獄させた。
 安政の大獄により捕縛された梅田雲浜との関係を問われ、翌安政6年(1859)に、幕府により、江戸へ護送されることとなり、取調べを受けることとなった。この際に松陰は、幕府に対して意見を述べる好機と考え、ペリー来航以来の一連の幕府の政策を批判し、幕府の知らなかった老中襲撃の計画まで自供したため、死罪とされ、伝馬町の牢屋敷で処刑された。享年30歳。
 遺体は小塚原回向院に葬られたが、文久3年(1863)正月、門下生であった高杉晋作、伊藤博文らの手により、世田谷若林の長州藩抱屋敷内に改葬された。
【関連項目】
・松陰神社 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21859/detail/]
・井伊直弼 [https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21915/detail/]

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