昭和63年11月、復元した次大夫堀や水田の一角に開園した次大夫堀公園民家園は、江戸時代に由来する名主屋敷(主屋1棟と土蔵2棟)、民家2棟、表門などを復原し、江戸後期から昭和初期にかけての農村風景を再現しています。
江戸後期に建てられたと推定されている喜多見の農家の主屋です。
江戸後期頃に一般的であった整形四間取りの間取りと、養蚕農家の造りが特徴です。
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区内深沢に、文政13年(1830)頃に建築された穀倉です。
土蔵造りの倉で、火災や防犯等に強い構造となっています。
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区内喜多見の登戸道と、筏道が交わるところに建っていました。
農間余業で酒屋を営んでおり、主屋の造りには、町場などで見られる店造りの形式が多く取り入れられています。
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区内深沢に天保9年(1838)に建てられた表門です。
門の左右にある部屋(ドジとクラ)は、元々別棟でしたが、天保9年に門構えを加え、1棟の長屋門として再建しています。
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江戸時代後期に建てられた旧大蔵村の名主家です。
家が繫栄し、屋敷構えが整ったと推定される明治中期の姿に復原しています。
式台をはじめ、名主の役宅を兼ね備えた間取りは、八間取りで、主屋の裏側には内倉を併設しています。
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各村々で組織されていた、消防組の組員詰所として再現しています。
櫓の半鐘は、かつて宇奈根地区で使われていたものです。
次大夫堀公園の名称の由来となっている「次大夫堀」とは、江戸幕府の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開発された農業用水です。
正式には「六郷用水」といい、多摩川の水を取り入れ、世田谷領(現在の狛江市の一部・世田谷区・大田区の一部)と六郷領(現在の大田区)を流れる、全長約23.2kmの用水でした。開発後、昭和に至るまで350年余の間、周辺住民の農業・生活用水として欠かせない存在でした。
農業用水としての役割を終えたあと、昭和55年(1980)に、公園内にかつての流路600mが次大夫堀として復元されました。