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せたがや歴史文化物語

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016松陰神社の誕生にまつわる物語

松陰神社のある一角は、江戸時代、大夫山(だいぶやま) あるいは長州山(ちょうしゅうざん) と呼ばれていました。その理由は、この場所に長州藩の抱(かかえ) 屋敷(やしき) があり、萩藩の当主が毛利大膳大夫と称したことに由来しています。
 安政4年(1857)7月に安政の大獄で死罪となった吉田松陰の遺骸は、当初、小塚原回向院(現在の荒川区南千住)に葬られました。文久3年(1863)正月に松陰の遺骸は彼の門下生であった高杉晋作、伊藤博文らの手によりこの地改葬されました。しかし、元治元年(1864)に禁門の変が起こり、幕府による長州征伐が行われると、長州藩抱屋敷も没収され、敷地内にあった松陰らの墓も破壊されてしまいます。
 維新後、明治4年(1868)藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を建て、明治15年(1882)には、旧藩主毛利元徳及び松陰の門人、旧知の者が墓の近傍に社を築いてその霊を祭りました。これがいまの松陰神社です。
境内には、吉田松陰らの墓があり、社殿の東側には、松下村塾の建物が再現されています。

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