吉良頼康から井伊直弼、吉田松陰まで
14世紀後半、日本の歴史のなかでは室町時代の頃、世田谷は吉良氏が領地を支配していました。吉良氏は、現在の世田谷城址公園や豪徳寺の一帯に館を構え、矢倉沢往還を望む場所に拠点となる城を置きました。現在の区役所周辺は元宿と呼ばれる城下町だったと伝えられています。
16世紀、吉良氏が後北条氏の支配下に入ると、後北条氏により矢倉沢往還沿いに世田谷新宿が設けられ、楽市が開かれました。これが世田谷の年末年始の風物詩となっている世田谷のボロ市の起源です。世田谷新宿の管理のため、吉良氏第一の家臣・大場家は世田谷新宿に移り住みました。それが代官屋敷の場所でした。
17世紀に入り、江戸時代になると、世田谷の村の約半数は彦根藩井伊家の領地となりました。世田谷領代官となった大場家は藩領の代官として職責を負い、約230年の間、世田谷領をとりまとめました。藩主の井伊家は、世田谷村の寺を菩提寺としたことから、江戸でなくなった藩主の墓所が造られ、幕末の大老・井伊直弼も葬られました。
豪徳寺からわずかに離れたところに松陰神社があります。ここには幕末の教育家で安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓所がおかれています。江戸時代の若林村には萩藩毛利家の抱え屋敷があり、「大夫山」(だいぶやま)などとよばれた長州ゆかりの地でした。幕末の歴史に登場し、対立した人物同士が世田谷のそう離れていない場所で眠りについていることに歴史の妙味を感じます。